勝ちの価値
棋士もそうだが、勝負事に携わる方々で験を担ぐ人は多い(はず)。勝った時と同じものを着たり、同じものを食べたり。これは別にすがっているわけではなく、心のよりどころのようなもので気休めに近いだろう。ちなみに私は担がない。なぜなら、前回の対局でどういった行動をとったのか、どのネクタイを付けたかなどを覚えていないからだ。だから厳密には担がないというより、担げないともいえる。
もちろん勝負事に関わらず、例えば仕事や恋愛(これらもある意味では勝負だが)においても験担ぎはつきものだ。たとえ神様なんて信じていなくても、「縁起」を気にしてしまうということはあると思う。ただ、この「縁起」の善し悪しが、駄洒落になっているものが非常に多いのは前々から気になっていたことだった。一番身近な「勝つ」と「カツ」だって冷めた目で見れば実にくだらない(気がする)。単純な決め方だけに些か疑問だったが、日本の歴史上、「言葉」にいかに力や価値があったかを示す顕著な例である。
つまり、だ。普段から親父ギャグなどと揶揄されたり場を凍らせたりして敬遠されがちな駄洒落が、本当はとても高貴な言葉遊びなのではないかと私は思うのだ。お洒落な駄洒落だとなお良いだろう。アルミ缶の上にあるミカン、侮ることなかれ。
もっとも、同じ駄洒落を何度も繰り返し始めると、だんだん親父臭くなっていくのだろうけれど。
池永天志