アガパンサスの花が咲くころ

 6月18日は愛犬ジェナスの一周忌だった。
一年前、実家の庭のアガパンサスの花がきれいに咲き始めた頃のことだった。
ジェナスの容体が悪いと聞き、財布だけをもって大阪から新幹線に飛び乗った。
ジェナスは17歳。一年ほど前から歩けなくなり、認知症も発症、元気なころからは想像もつかない体になっていた。佐賀を離れてからはなかなか会えなかったが、二度と会えなくなることは不思議と想像したことがなかった。
「なんだかぬいぐるみみたいなお目めですねぇ」と抱き、赤ん坊を愛おしむようにして世話をした母。父は単身赴任中で不在だったこともあり、母と兄で介護を続けてきた。
実家に着く前に、ずっと寄り添ってきた二人は取り乱しているに違いない、私がしっかりしなければと覚悟を決めた。
私の到着も間に合い、最後まで寄り添うことができた。
リビングでジェナスを囲み全員で寝た。まだ信じられない、なかなか受け入れられなかった。ジェナスの代わりになる存在はいない。急に大きな喪失感におそわれ、泣いて泣いて…泣いた。

 ジェナスが我が家に来たのも18年前の今頃、梅雨の最中。私が5歳、兄8歳の時だった。私たちが犬を飼いたいと言い出したので、母が保健所に里親登録をした。犬が保健所に持ち込まれると連絡が来て、面会し、飼いたいと思えば里親になれる制度だ。その連絡が来た日のことを今でもはっきりと覚えている。
「ついに電話が来たよ!」という母の声に、私は喜んだ。
今から行こうと急かしたが、兄が帰ってくるまでは行けないと母は譲らなかった。絶対にきょうだい二人で決めなければならないと言った。駄々をこねたが無理で、結局、保健所の終了時間ギリギリに駆け込んだ。遅くなったことを母が謝っていた場面が鮮明に記憶に残っている。

「こちらへどうぞ」と案内され、建物の外へ出ると、また別の小さな建物があった。
そこは私の想像とは全く違っていた。ペットショップにあるようなゲージもない。大きな動物がいそうなコンクリートの建物で声が響いた。薄暗くて蒸し暑かった。
大きな鉄柵の開く音に、驚いてブルブルと震えながら下を向いて歩いてきた小さな黒い犬。
これがジェナスとの出会いだった。
「考えられてよいのですよ」という係の方の気遣いに「元気がない?怖いのかな?僕はこの犬をもらいたいです!」とはっきりと言い切った兄。その言葉に私も母もうなずいた。やった!私も嬉しかった。

保健所では、飼い主になるための心得をしっかりと受けて帰った。
犬を飼うことがどれほど重大で責任を伴うことか、幼い私でさえ理解できた。抱いた時の重みと温もりを感じ、家族みんなで幸せにしてあげると誓った。こうして晴れて我が家の一員となった。

兄から『ジェナス』という、メスだがオスのような名前をつけてもらい、私たちの新たな生活がスタートした。
数日で我が家に慣れると、見違えるように元気になった。猛ダッシュしてきては体当たり、尖った乳歯で甘噛み攻撃。庭中を駆け回って遊んだ。特にターゲットになったのは兄で、Tシャツの裾は穴だらけ、スニーカーを見つけられると、紐をくわえられ八の字にブンブン振り回されていた。愛くるしい瞳と人懐こい性格に、友人や近所の人たちからもたくさん声をかけられ可愛がってもらった。

私たちの成長と同じように、ジェナスはもっと早いスピードで成長していった。
とても温厚で、優しくて賢い、どこか上品な立派な犬に成長した。何犬のミックスなのかも分からないのだが「利口そうな犬ですね、何犬ですか?」とよく尋ねられて困った。

ジェナスは私たちきょうだいの、幼・小・中・高・大学の卒入学式、成人式や兄の就職まで見届けてきた。
玄関の同じ場所で記念写真を撮るが、ジェナスも必ず傍に来て愛嬌ある顔で写った。
私の成人式では、何十年もいっしょに歩いた散歩コースで記念写真を撮った。振袖で散歩するのはどうかと思ったが、ジェナスの脚が弱ってきたこともあり、どうしても撮っておきたかった。あの日、一緒に歩き、堂々とした顔でカメラを見つめていたジェナスの姿は一生忘れない。

ジェナスは私をうつす鏡のような存在でもあった。私が将棋でスランプに陥った時や嫌なことがあると、必ずジェナスを撫でた。黙って気の済むまで撫でた。そんな時は必ず私の手を優しく舐めてくれた。まるで私のストレスや不安、悲しみを汲み取ってくれているかのようだった。こんなにも自分の感情がそのまま伝わるのならば、私が元気でいることがジェナスの喜びにもなると思った。頑張ろう!と自然と力が湧いた。私はジェナスからどれほどの愛をもらっただろう。

ジェナスは虹の橋を渡り、いつでもどこにでも行ける自由な体になった。佐賀、大阪、東京と私と一緒に自由に動き回っているのではなかろうか。
先月の6月18日には、淡路島の海岸から昇る美しい朝日をジェナスと一緒に眺めた。きっと傍にいると信じている。

今年も実家には大輪のアガパンサスの花が咲いているらしい。何ものにも代えがたい幸せな生活を送ることができたのもジェナスのおかげ、感謝の気持ちでいっぱいだ。

武富礼衣

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